ジャズダンス考 第30回

まさかこんなに続くとは、の 30 回目。

すぐにネタ尽きるかと思いきや、

日々のレッスンで気づくことはまだまだたくさんありそうです。

ということで。

人は極端なものに魅せられる生き物である。

どこまでもつづく宇宙の無限のひろがり。

漆黒の夜にさえ沈み込んでゆく邪悪の闇。

目がくらむような黄金の輝き。

そのどれもが「はんぱないもの」なのである。

「はんぱないもの」

そういうものに人は恋い焦がれるのである。

そこには、

良いも悪いも

正しいも間違いも

きれいもみにくいも

ないのである。

ただ、はんぱないパワーだけが

あるのである。

さて、ダンスにおいて「はんぱない」とはどのようなものだろうか。

はんぱない柔軟性、

はんぱない跳躍力、

そしてはんぱない表現力。

そんなものを手に入れたいと思うのである。

柔軟性も跳躍力も前回の話に沿って言えばテクニックである。

日々の鍛錬で上達するものである。

では表現力というのはどのようなもので、

どのように身につければよいのだろうか。

踊る者であればそれは永遠のテーマであり、

それは誰にも分からない、

と言って捨ててしまうのは簡単であるのだが、

ある一つの答えを言えるとするなら、

それは「身体の拡がり」ではないかと

自分は考えている。

自分の身体感覚を広げることによって

見ている者があたかもあなたに憑りうつって

あなた自身を味わってしまうような、そんな感覚である。

では身体感覚を広げるというのはどういうことなのだろうか。

その前に、一つ質問をしてみる。

「あなたのカラダと世界の境目はどこですか?」

その答え以下の空間がすなわちあなたの身体とイコールになると思うからだ。

ほとんどの人がこう答えるだろう。

「それは皮膚です。」

なぜか。

それは、あなたが生命として維持管理しているのが「皮膚まで」だからである。

そんなときはこう質問してみる。

「髪の毛はどうですか?」と。

すると髪の毛も自分の一部だという。

ふむ。

髪の毛は確かにあなたの細胞だが、それはすでに死んでいる。

それをあなたは「あなたの一部である」と言うわけだ。

なるほど、それでは

昨日まで長かった髪のあなたと

髪を短く切ったあなたは

切った髪の分だけ世界が縮まったわけだ。

そんなにコロコロと自分の身体の範囲が変わって良いのだろうか。

…そう、それで、いいのだ。

つまり、あなたの身体の大きさとは、あなたが思っている常識を突き破って

日々、いや、もっといえば瞬間瞬間に変化しているのである。

死んだ細胞の髪の毛があなたの一部だというなら、

その手にペンを持てばペンの先まで

包丁を持てば包丁の先まで

袖の長い服を着ればその袖の先まで

リボンを持てばそのリボンの先まで

車に乗ればバンパーの先まで

が、あなたの身体なのである。

これは安っぽい比喩表現とかではけしてなくて、

真にそれがあなたそのものなのである。

自分はフィギュアスケートは実は大嫌いなのだが (笑 理由はいろいろ)、

でも多くの人がそれに魅せられている理由は、

あのスピードに切り裂かれた空間の広さなのだと自分は思う。

生まれてすぐの赤ん坊は、自分の顔をしきりに触ったりする、

これをセルフタッチと言うらしいのだが、

それは何をしているかというと、

自分と世界の境目を確認しているのだという。

つまり、自分の指で触ったときに

同時に「触れられた感覚」があればそれは自分の身体で

「触れられた感覚」がなければそれは自分の身体ではないだろう

という推測をしているのだという。

逆に言えば、生まれたての赤ん坊にとっては

自分と世界との境目など分かるはずもなく、

この世の中すべてが自分なのである。

改めて思えばそれはごく自然のことなのだ。

そして、人間は必ずみなそうして生まれてきた。

ということはイメージ次第であなたは

この世の中すべて

にもなれるのである。

思い起こして欲しい。

素晴らしいダンサーは、みな素晴らしい道具の使い手でもあるのだ。

それはときに舞台であり、音であり、照明であり、衣服であり、髪の毛であり、そして自分の手足、

つまり空間そのものなのだということを。

もしそんな感覚を持って踊ることができたのだとしたら、

それは人を魅了してやまない踊りになるのだろうと思う。

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